園芸部

中学の部活は余程特別な理由が無い限り強制で、文化部が二つしか無いから金のかからん園芸部に入った。
私は六年の二学期に島根に再び引っ越してきたから知らんかったが、園芸部は悪名高かったようで。
中学部活どうするか尋ねて幼馴染み?の友達から聞いた。
曰く、問題がある生徒ばかりだと。
不安そうだった幼馴染みも金銭の理由から、諦め受け入れたように園芸部を選んでいた。
こいつが行くなら私は入っても不安はないな、と噂は大して気にしなかった。

尚一年時の担任様による攻撃の中には
「部活決めた?
(園芸部です)
ワイさんならもっと他の部活があるよ 
(幼馴染みも行くので)
幼馴染みさんは幼馴染みさんなんだからワイさんの好きなところ入るべきよ
(お金もないので)
お金なくても良い部活は他にもあるよ
(運動無理だし)
吹奏楽部があるじゃない
(お金かかるんで)
でも、園芸部はやめた方がいいよ
(幼馴染み居ますし平気です)
幼馴染みさんとワイさんは別の話でしょう?
考え直した方が良いと先生は思うな
(いえ、入学前から決めてたんで)
いや、でも…
(そんなに問題があるんですか)
問題があるって訳じゃないんだけどね、ワイさんには合わないと思うよ
(その時は別の部活に入ります)
転部は難しいからそれなら最初から他の部活に入ってた方が良いよ
その方が楽だから
(入ってみないと分からないんで
それなら園芸部にずっと居ます)
でも合わなかったら
(その時はその時なんで)
でもね、ワイさんには園芸部以外にも他の選択肢があると思うから…」
と、言う以下堂々巡りなやり取りが報告後から入部暫くもあった。
そこまで止めるほど園芸部やばいんか、と思った。

実際は最高だったが。

後入部期間から締め切り期間までストーカーが苛烈になった。
入部期間初日に体験入部して、体験入部期間終了して本入部の紙を持ってく時この女邪魔しに来た話もいつかする。
多すぎて箇条書きした方が早いんよこのストーカー。
閑話休題!

園芸部が問題な理由は、養護クラスの生徒が入れる部活がそこだけだったから、らしかった。
後はそれを厭わない為に一般からややはみ出した感性の人達が居たが、ゆえに道徳心は高く、他の部活に入った人達の話を聞くたびに私は園芸部に入って良かったーーー!!!!!となってた。
どの位かと言えば保健室登校で友達になった子をしつこく勧誘して面倒がらせながら転部させたほどに。
それでも他より転部は楽だったらしい。
そいつは元々吹奏楽だったが、途中で倒れて幽霊部員と化した。
親に言われて癲癇を隠して吹奏楽に入ったのだそうだ。
つまり順養護クラス要員で、彼女の病気を知った学校側としては園芸部に入って欲しかったのだろうと、中学卒業後本人が言ってた。

園芸部では長い休みには育てた花や苗を売る活動をしてた。ゴールデンウィーク、夏休み、冬休みと春休み。
幼馴染みと私は誰もが間違うほど双子めいた容姿をしていたから、手を合わせて看板を持ち上げ声を合わせて呼び込みをした。
「お花入りませんかーっ?一本50円でーす!」

この売り上げ金と、プラス恐らく学校側の資金か政府のシステム?仕組み?で援助され、研修と称した一泊二日の旅行に行けた。
毎年夏休み後半に、花に所縁のある場所一ヶ所に他は好きな場所の正に旅行。研修要素もあるけど。
一年の時は四国行って花のキーホルダー作ってうどん体験して金比羅山登った。閉店したがネギの山盛りラーメン屋で名物も食べた。また行きたかったなあ。

二年
売り上げが良くて二泊三日旅行に行けた。16万だったか。
長崎のグラバー園とかハウステンボスとかガラスカップに模様彫ったりとか。
やらかしもあったが楽しかった。
何処か分からないが遊園地に最終日行ったんだが観覧車の足元が吹き抜けでサビサビで風強くてめっちゃ怖かった。
リニューアルしてしまう前のハウステンボスにまた行きたかったなあ。あの遊園地はもう潰れただろうか。

三年は顧問が変わってしまったけど旅行に行けた。
あまりこの一年は楽しくなかったけど、それでも充分だった。
充分なものをそれまでに私は園芸部から貰った。


なんで前回からのこんな話をしたかと言えば、これが私の薬だったから。

園芸部が、現実における私の心の拠り所であり、どうにか常人っぽく過ごせた薬だった。
ネットに逃げてもパソコンがあるのは彼らの寝室兼リビングで、父親が怒鳴り散らし母親が狂声を上げ姉妹が喚けば止めざるを得なかった。
だから心の不安定さはネットだけでは支えられなかった。
その足りない分を、園芸部が補ってくれたから私は統合失調症ながら薬もなく精神病院にもかからず症状を落ち着かせることが出来てた。のだと思う。

私にとって、園芸部は聖域で、青春で、
だから三年生の時に色々が壊れたことは悲しかったが良かったかもしれない。
正しく言うなら一年生と二年生の時の記憶が聖域。

園芸部のことならいつまでも語れる。
本当に本当に楽しかった。
理解のある人々だった。
青春があの場所で良かった。

なんせ統合失調症。
記憶曖昧だけどそう言う奴、と受け入れられてたが、思い出せる限りでも大分行動やばかった。
着替える場所無いから男女同じ場所で背中向けて着替えてたんだが。
発病後からは下着姿でうろうろしたり。
突然ハサミで髪の毛人目の前で切ったり、下半身水着(下からパンツ見えてる)で休日部員と遊びに行ったり、制服なのに自ら水を被りびしょ濡れになって大爆笑しながらスキップしたり、大声で歌い出したり、ミーティング中に突然走り出したり脱いだり…
いやよく付き合ってくれたなみんな…文字に起こしただけで結構なキチガイじゃん…養護クラスの奴よか部分的にはやばかったやろ…
信じられるかこれ楽しいとか思う陽キャでも格好良いとか思う中二病でもなく普通にやってたんだぜ…頭の中やばぁ…
なんか抑えがたい衝動はあれどこの程度普通と思ってた。しゃっくりと鼻歌程度の気持だった。
幼馴染みが毎度滅茶苦茶怒って止める理由が分からなかった。こんな程度でなんで???ってなってた。幼馴染みが正しいんよ……
これを個性として受け入れて付き合ってくれたあの人達イズ何。聖人かよお…
…いやまあ、現実的に見れば彼等も彼等で重度の中二病に浮かされてたんだろう。多分。
なんか男子とか技名言いながらレーキ構えてちゃんばらしてたしな。

そののちの崩落は、悪ぶって言うなら救われた後で用済みになったからこそ受け入れられてるのだろうよ。
私にとっての園芸部は私が一年二年の時のみをさすから。
三年生の時のことはまたいずれ。

中二病

つまり私は統合失調症と中二病の合併症だったのだろう。
だから薬も医者もなしでどうにか普通を過ごせた。

中学二年生の夏休み。
シーンと静まった昼頃のこと。
突然として私は真理に至った。
人生を貫く真理にだ。

どのような真理かはキーボードでなけりゃ打ち込む気にならない長さなので今は書かないが、兎に角私は世界の真理に至った。
それは私個人のものであり、人によっては共感こそすれど大多数には他者の意見でしかない。
あくまでも私の世界の真理だ。

ただ。
統合失調症の多くが宇宙を思うように。
私も、私の宇宙の真理に至った。
要は、統合失調症をこの時私は発症したのである。

まあ、あんだけ追い詰められてりゃあなあ…
思い返すのも面倒な位、よくぞと思うよ。
勿論それはそれとして私以上の不幸の存在は認めてる。
だから私は統合失調症発症程度で済んだんだから。

尚なんで統合失調症と判明したかと言えば前に心理テスト(精神科)行くっつったじゃん
あれでカウンセリング?お医者さんとお話しして結果恐らくそうでは、って診断出された。
当時に診断してないから断定は出来かねるが、とのこと。
とは言え実際統合失調症で精神二級貰ってるのでほぼほぼ確定だろうよ。
通院必須だし、あれは私が気に病まないようにの言い回しかなあと思ってる。

診断結果の要因の一つに、発症直後から自発的及び無意識で増えた癖や性質が幾つかある。

まず、無意識の性質だがやたらと脱ぎたがるようになった。
服を着てることが普通とは理解しているがそれはそれとしてやたら自らのスカートを捲ったりシャツの上のボタンを開けて肌を晒したがった。理由は不明。衝動性。
また此方も衝動性だが時折深い疑心暗鬼に晒され背後から殺されるのではとか今通りがかった人に命を狙われているのではとか殺害される恐怖や警戒で頭が一杯になった。
人の背後を歩くと少し落ち着いたので自発的に癖にした。人を過剰に避けて歩く癖も付いた。突然切りつけられるのが怖かったので。
他にも何も無いのに笑いが溢れる。なにが楽しいのか分からないがともかく笑えた。ご機嫌だった。
あと思春期もあったろうが兎も角感情の起伏が激しく、キレるか泣くか不機嫌かご機嫌だった。
一人だとぼーーっとして自室をウロウロしてた。
逃避場所であるネットの世界に没入し過ぎて現実との区別がやや付いておらず、中二病とサイト最盛期もあってサイト様のインデックスにある詩や作中の台詞を半分以上世界の本質と信じての一人演劇してた。人目も憚らず。演劇のつもりはなかったが今にしてみればそう見えると言う話。
学校や仕事があるのに行きたいのにどうやっても起き上がれない、どんなに頑張りたくてもエナジードレインされてるみたいな無気力と虚しさに支配される、のもサボりたいだけと思ってたら違ったらしい。そう言えば中2からだなって診断で思い返したら判明した。衝動性。

それと、家庭環境最悪だったので自分が自分の親代わりをしてあげようと自発的に頭を撫でたり慰める言葉を言う癖が付いた。
具体的には辛いことがあると部屋に篭り頭を優しく撫でて、「大丈夫…大丈夫よ……ね?大丈夫…」と落ち着いた声で囁く。泣いた。
こうなってくると本格的に話し相手が欲しいのでイマジナリーフレンドだか捏造別人格だかを作った。これは基盤があったので名付けと少しの性格補強だけで済んだ。
と言うのも10歳頃にあんまりにしんどくて鏡見ながら「今から父親と会話するがそれは私じゃない私。私じゃないから怖くない。辛くない。だって私じゃない私は私より強いしすぐ怒ったり泣いたりしない。私は平気。私は大丈夫。私は私を守れる」と度々暗示をかけてた。
なんせ鏡に映る自分がある日、ふと、別の私だ、と思ってしまって、以来彼女に手伝って欲しかった。鏡の向こうの私に私は助けて欲しくなってしまった。
この時に人工的に生み出された人格もどきは私よりは落ち着きがあり辛抱も出来て頭も冷静で、
此処に名前と優しい口調と私のやることを時に否定し肯定するようにすれば良いだけだったので簡単に人格もどきだかイマジナリーフレンドだかは完成した。なんかいつの間にかもう一人増えてたけど。

白状するが、統合失調症の他に軽度の乖離性人格性障害も認定食らってる。
私がこいつの生成を意図的に行った為に統合失調症の幻覚幻聴にはカウントされなかった。
二人目に関しては統合失調症とも乖離性人格性障害とも判別出来ないそうな。
なんせ一人目と違って気付いたら会話に入ってたし、作った記憶無いし、出現頻度少なかったし、当時をお医者さん診察してないし。しゃーない。

他にもままあるが、めぼしいのはこの位かな?
これらの大半は通院開始後処方された薬によって劇的に落ち着いた。
一番は脱ぐ癖が。すぐ下着晒してたからなー。誰も気にしないと思ってたんだよ。今はおかしいしやべーなってなってる。
マジで14から30越えるまで人目憚らずブラとかタンクトップとかパンツ人前で晒してたのやばすぎだろ…
起きれないのも、情緒不安定も、大分落ち着いた。
薬飲み忘れるとすぐグラグラでやらかすが!わっはー!!

人格?今でも本当に時々だけどお話ししてるよ。年一位?
もう殆んど統合してるけど、意図的に作った部分が大半だからいつでも呼べる。ただあの頃ほど必要がなくなったので呼ばないだけで。呼ぶ気にならない感じ。
だから本当にあの頃の私に必要な存在だったんだろう。
とは言えあの男と別居するまでは頻繁に話してたけどね!!つい3年位前までバリバリ元気だったよこいつら!後方保護者面でこれ俯瞰してる!

そう言う訳で医者の診断を信じ私見で統合すると、
私はノイローゼを経て統合失調症を発症、時期が時期で中二病の生涯固定化、加えて幼少時に軽度の乖離性人格性障害を患ってて、成人後は仕事で鬱病をこしらえたらしい。
これで薬も医者もなしでガチヤバ時を他人に迷惑かけながらも乗り気ってんだから、マイナスな環境下ってのは偉大。
環境最悪で誰も支えてくれない助けてくれないってマイナス環境下だとぼーっとしてる場合じゃない私シャキッとしなきゃ!って気持ちが働いて火事場の馬鹿力みてーにやってけるもんなぁ…わい実例やぞ説得力になるやろ多分

ので、精神病中々落ち着かんとか治らん人は周りに支えて貰える環境だと思うので、焦らず甘えて良いと思うよ
しんどいけどぼーっと出来ないからシャキッとしました、なんて録な環境じゃねーんだから
どうしようもなくスレる

こんなん言っててあれだが私とかまだマシでな
お袋とか発狂したのにほぼ直後…二週間位?一週間ちょっとだっけ、で、あのくそ野郎に仕事の面接受けさせられて仕事させられだしたからな。
私が生まれてから一度も働いたことがないと断じて良いニート野郎めが…30年で働いたのが合計しても二ヶ月あるかないかやで…合計勤務時間なら80いかない。ガチのおにちくクソ野郎がよぉ…
それもあってお袋は統合失調症の割にしっかりしてた。家事してた。っつーかさせられてた。
時々作れなくてイオンの袋ラーメンだったけど。
そのラーメン買う金だってお袋が人に頭下げて貰ったお金で……この辺の話はまたその内で…ぜってー長なる…
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